ふと思い出した智ちゃんのこと

智ちゃんは、もう10年以上前の僕の教え子です。自分から、「智ちゃん」と呼んでね、と、カジ子に言っていました。 今は実家のある栃木県に住んでいます。  智ちゃんは、カジ子が名前を覚えている数少ない教え子のうちの一人かもしれません。(あとは、きれいなお姉さん、とか呼んでいます・・・)  先日、その智ちゃんからメールが届きました。お互い筆不精ですから、彼女からのメールも2年ぶりかもしれません。  メールの題名は、「生まれました!!」 〜〜〜〜無断で一部引用:11月4日に帝王切開で生まれました。 女の子です。 名前は礼と書いてあやといいます。 礼儀正しい、品のある子になってほしいという願いを込めて・・・。 (それはちょっと難しいかな??)  〜〜〜〜ここまで〜〜〜〜  智ちゃんの年代は女子が多く、彼女らはいつも僕の研究室に集まってはいつまでもしゃべっていて、あまりにも卒業論文の研究をしないものだから、本当の指導教官が怒鳴り込んできたこともあります。 (笑) 彼女らが4年生になるとき、かみさんが網膜はく離になりました。そのとき、僕は青森に出張に出たばかり。大阪の共同研究者と青森にある東北大学の臨海実験所で会い、これから実験開始というときに、岩手医大に入院したかみさんからのSOSがありました。動けばさらに網膜はく離が進むので、小児科の空いているベッドで絶対安静を言いつけられたとか。もう右目はセピア色しか見えないということでした。(目の真ん中まで来ているということ)ベッドの隣ではまだ幼稚園のカジ子がじっと立ってます。 大阪から来た人にお詫びをして、僕は盛岡に飛んで帰りました。(このことで彼も僕も10年研究が遅れ、彼は大学を2つ変わることになりました)   かみさんの手術の日はちょうど卒業式。カジ子は知り合いの方に預かってもらい、僕は卒業証書授与式に出ました。担任だったので、卒業証書を渡さなければならなかったのです。 それからの3週間は、娘を幼稚園ではなく大学近くのベビーホームに預け、仕事を5時で切り上げて娘を迎えに行き、医大に行ってかみさんの面倒を見、帰って娘と食事、お風呂、洗濯。アイロンかけは日曜の午後にやって、まさに主夫と看病の日々を過ごしました。朝6時に、かみさんからの電話で、娘が目を覚まさないことを願いながら医大との間を往復したこともあります。  さて、そんなことはさておき、土曜日には娘を研究室に連れて来ました。そこで相手をしてくれたのは、生物学教室の女子学生たち。 幼稚園生のカジ子はかわいい盛りで、女子学生たちも大喜びです。 でも、カジ子は猿でした。(今は面影はありませんが)  ある女子大生は、「私は結婚しても子どもは産まない」と、30分でアウト。 別の女子大生は、「私は結婚しない」と、1時間で脱落。。。 さらに、「私はもう学校の先生なんかにならない」と言う学生も。。。  最後まで残ったのは、 「智ちゃんと呼びなさい」とカジ子に命令していた智ちゃんでした。  さすがに智ちゃんは僕の学生です。他の人みたいに、もう面倒を見ません、とは言えません。(笑) でも智ちゃんは大の世話好きなんです。当時、女子寮の寮長もしていて、よく研究室に泣きに来ました。いや、泣いているんだか怒っているんだかわからない状態で、ですが。(笑) 智ちゃんは、中学のときに両親が離婚しました。で、お父さんの実家から中学に通いましたが、お父さんもお母さんも別のところに住んでいました。智ちゃんを養うことができなかったのです。でも、がんばる智ちゃんは、県内で一番がんばった中学生に贈られる賞を県知事さんからもらったのだそうです。 智ちゃんは、自らも就学困難な子どもでしたが、もっといろんな家庭の事情を抱えている子どもがいる、と、先生になるために岩手大学教育学部に入学してきました。 が、やはり教員採用試験の壁は厚く、彼女は毎年2次試験に残りながらも、正式採用になりませんでした。  そんな智ちゃんが最初に勤めたのは、地元栃木の黒磯北中学校。その年の2月に、学校の廊下で、中学生がバタフライナイフで先生を刺し殺した事件があったばかりでした。世間は驚愕し、中学校の正門前には、新年度になってもテレビのカメラがずらっと並ぶ異様な雰囲気の学校でした。 その3月末に、智ちゃんのおばあさんのところに教育委員会から電話があったのです。非常勤講師として採用したいが、どうか、という電話です。 おばあさんは、智ちゃんに連絡をせず、「よろしくお願いします」と言ってしまったのです。そのことを智ちゃんが聞いたのは翌日の朝。寮の後輩から、昨夜電話がありました、との伝言で。 そう。おばあさんは、そんな大変な学校だということが頭の中になく、とにかく孫が就職できる、ということで、返事をしたのです。  でも智ちゃんはくじけません。黒磯北中学校に赴任しました。期間は3週間。事件以来、出てこられなくなった先生がいらっしゃるので、その病欠期間の短期講師でした。最初の日はマスコミ対応についての校長と教頭からのレクチャー。正門前にメディアがいるのに、校内では毎日問題が起きていたそうです。心理学の専門家も入っていました。  が、病欠期間が過ぎても先生は出てきません。精神的ダメージが強くて、出てこられないのです。 そのため、智ちゃんの契約期間は延びて、5月末まで。1学期が終わるまで。2学期が終わるまで。と、結局、1年、その学校でお世話になりました。彼女の責任は、2クラス分もいる保健室登校の生徒たちの相手でした。先生だけでなく、教室に入れない生徒がそんなにたくさんいたのです。  次の年も教員採用試験に落ちた彼女は、今度は元の教え子のお母さんにぜひにと頼まれて、家庭教師をすることになりました。成績が悪かったので、教育委員会からお呼びがかからなかったのです。 さらにゴルフ場のキャディのバイトも始めました。が、キャディは、カートの運転中に、ゴルフ場の社長を乗せたまま坂を転げ落ちてしまい、その場でクビ。笑おうにも笑えない試練をくぐりぬけて、彼女はまた教員採用試験に落ちました。  次の年は、教育委員会に呼び出され、選択を迫られました。 「君の成績だと、「言葉の教室」に行ってもらうはずなんだけど、昨年勤めた学校の校長先生が、君にぜひ、と言っているが、どうするかね?」と。 情に篤い彼女は、また黒磯北中学校へと向かいます。が、今度は特殊学級の担当です。 少し知恵遅れの子どもたちが通っています。  「校長先生、これはベテランの先生がやる仕事ではありませんか」 「そうなんだが、誰もやってくれないんだよ」 ということで、彼女は、はからずも就学が困難な子どもたちのクラスに配属になり、知恵遅れの子どもたちの家の中には、たまにひどい家庭もあるっていうことを知りました、と、僕に何度か教えてくれました。 その後、メールのやり取りがなくなり、7年後、「突然、結婚することになりました」とのメールが届きました。今から5年くらい前の話です。その年、智ちゃんはやっと教員採用試験に合格したのです。 舞い上がった僕は、当然式に出ました。祝辞はしゃべったかなー??? 僕の隣には、彼女が配置したという、お酒を勧めるのが上手なおじいさんが。そのおかげで、たっぷりとお酒を飲んで上機嫌になった僕は、退場のときに、金屏風の前に整列した新婦に抱きついておめでとうを言ってしまいました。(笑)腕を広げると僕に抱き付いて来る新婦もどうか、と思いますが。。。(爆)  その、新婦のおしろいを式服につけたまま、引きずられるようにして、当時カジ子の面倒を見てくれた元女子大生たちに盛岡まで連れて帰ってもらいました。  智ちゃんはでっかい。僕よりもでっかい。その肝っ玉かあさんのような彼女に、ちっちゃな子どもができ、帝王切開でこの世に生まれた。  とっても世話好きな彼女のことだから、きっとベタベタに愛情を注ぐことでしょう。そういう、もしかしたら困難かもしれない状況をくぐりぬけ、彼女はどんどん幸せになっていきます。 もう、お父さんともお母さんとも連絡がないようです。 でも、そういう両親のことを心配しながら、彼女は自分の家庭を確かに築き上げていく。さらに子どももやっとできた。(治療して作ったのかな?)  そういう人のところに、幸せって来ると思うのです。  つきなみな感想かもしれないけど、良かったなあ、と、僕はしみじみ思うのです。   おまけは、その当時のカジ子の写真です。(笑)←親バカ