私が好んで通った店、その1「喜久」(長文)

人によって好みは違うであろう。だから、たくさんの店が成り立つ。人は、何によって常連となる店を決めるのだろう。味?自宅や会社からの距離?雰囲気?音楽?漫画?それとも、店主店員の人柄?僕は、圧倒的に、その店の店主店員であることに気づき、いまさらながらびっくりしている。癒しを求めているわけではない。また、友達みたいにお互いの個人的なことまで知っているわけでもない。でも、そこに、人としてのふれあいがある場合、何度も足を運ぶ店になっていくようだ。そういう店を何軒か思い出しながら書いてみようと思ったら、1軒目でかなり長くなってしまった。なので、題名をその1とした。■喜久岡山の学生だった頃、おそらく生物学科の先輩に連れられて行ったのが最初だろう。岡山駅の東側200mに、西川という川が流れている。西川を中心にして両側に道路がある。また、公園もある。その、道路や公園から一歩街の中に入った雑居ビルの中に、いろいろな店があるのだ。「喜久」もそのうちの一つ。なんと、数年前に行ったときには、まだ建物や店はあった。が、誰も使っていないようだった。「喜久」は、当時、おばちゃんが一人でやっていた。カウンターに10人座れただろうか。カウンターの後ろには、二人掛けのテーブルが2つ。が、誰も座っているのを見たことがなく、いつもカウンター客の荷物置き場になっていた。カウンターの向こうは四畳半。おばちゃんの使い込んだタンスがあり、幅1間半の店とその四畳半が、おばちゃんのすべてだった。ここには、生物学科の学生たちがたむろしていた。同級生のK澤は、おしんこと日本酒1升で2000円と言っていた。まだ二級酒というランクが存在し、僕たちはそれしか飲んでいなかった頃だ。おばちゃんは、その日の市場に行き、旬のもの=安いものを買って来て、料理して出してくれるのだ。3時頃から店を開ける。まず最初のお客さんは、近所のじいさんたち。夕方になると、銭湯に行き、帰りに「喜久」に寄り、お銚子1本と焼き魚を食べて、おばちゃんとしゃべって帰る。が、僕はこの人たちに会ったことはない。次が仕事帰りのサラリーマン。まずは「喜久」に寄り、ビールを飲んで何かつまんで、遅くとも7時頃には帰宅する。若い人たちは別の店に行くようだった。そして、僕たち学生が6時半頃から集まり始め、閉店の11時頃まで居続ける。当然僕たちは次の店に行き、朝4時頃まで飲んでいる。帰れないやつらは、友達の下宿まで1時間以上かけて歌いながら歩いて帰って泊めてもらう。タクシーなど乗れない貧乏学生たちである。(でも、酒を飲む金はある)僕たちは、とにかくこの店で飲んだ。が、下の年代は、当時流行り始めた「カクテル」とかいう飲み物を出す店に行った。なぜだか、僕たちの年代は、カクテルが苦手だった。したがって、僕たちと、下の年代の数人がこの店にいつも集まった。そうそう。サイクリング部ヤラグビー部もいたかもしれない。ところがいっぽう、ここには僕たちの天敵もいたのだ。法学部教授のS(だったかどうか忘れた)。弁護士の資格も持つこの教授は、当然、弁が立つ。朴訥でまじめな理学部生物学科の学生など、一言で簡単にひねり潰してしまうのだ。だから、この先生に捕まると、その日は悪酔いして潰れてしまう。おばちゃんにも、「学生さんをそんなにいじめないで」と、よく叱られていた教授だ。でも、教授も、顔を真っ赤にしてどこまでも本気で付き合ってくれる学生がかわいかったのだろう。僕らの中に、犠牲者は出続けた。(笑)(そのおかげか、僕たちの学年には大学教員が多い)←今、自分の学生に仕返ししているわけではありません。サラリーマンの中にも、僕らに付き合ってくれる人がいた。少し年上の人。福助とかいう下着屋さんだと言っていた。そんなことはどうでもよい。が、世間話がおもしろく、隣り合わせた学生は楽しそうに話を聞いていた。この「喜久」の名物料理が、「シズ」。瀬戸内海で取れる魚の一種だ。きっと安かったのだろう。今調べたら、「イボダイ」の地方名らしい。大きいものは高級魚だが、小さいものは安くて大量に出回るそうだ。これを塩焼きにしてくれる。白身の魚で、上品な味で食べやすく、飽きが来ない。なにしろ、骨の間の肉をつつくだけでいつまでも酒が飲める。(笑)調理も楽なようだ。2番目が「ブタピー」。同級生の何人かは、これとビール(高くてあまり飲めなかった)から入る。その名のとおり、「豚肉とピーマンの炒め物」である。これも、安くてうまい。豚ピーだけでその日を終わる学生もいた。そのほかは、、、。残念ながら、覚えていない。煮物なんかもあったように思う。そういえば、ここで初めて、「衣かつぎ」を教えてもらった。「衣かつぎ」は、サトイモを蒸かしただけの簡単料理。特に掘りたてのサトイモは、手で持ってちょっと力を入れるだけで、その皮が「くるり」とむけるのだ。そのおもしろさと、サトイモの素朴なおいしさに僕たちは夢中になった。サトイモなど、関西の僕らにはお節以外なじみのない食材だったのかもしれない。そんな喜久に、僕は大学1年から修士、そして研究生1年まで、都合7年間通った。1年生の時には自宅から通っていたから、みんなより早く10時頃の終電で帰っていた。2年と3年はほぼ同棲状態だったので、彼女のところに帰って泥酔していたに違いない。4年からは岡山を離れ、車で1時間かかる牛窓の臨海実験所に寝泊りして研究をしていたので、この頃は行かなくなっていたのではないだろうか。そのへんの記憶が定かではない。誰かの下宿に転がり込んでいただろうか。当時は携帯電話などなく、友達と約束するのはどうしていたのだろう。研究生の頃は、実は別に彼女ができていたので、土曜は一緒に飲んで、日曜はそのまま彼女のところに転がり込んでいた。そんな学生時代の最後の頃、おばちゃんが店を畳むという知らせが入った。おばちゃんも60歳になり(今から考えると、そんなに若かったのか)、しんどくなってきたから、実家のある県北の高梁に戻るというのだ。これは、署名運動が起こり、おばちゃんは1年だけ続けてくれることになった。が、この年、僕は岡山を離れて青森に行くことが決まっていたのだ。今日が最後になるという挨拶のために喜久に行った日、福助に勤めているサラリーマンも来ていた。長年お世話になりました。これからもお仕事がんばってください、と言ったら、俺は実は福助に勤めていたりしないのだ、という。なんだ、この人は、酒の席でいいかげんなことを言ってたのか。学生だと思って、いいかげんに(まあ、楽しく)飲んでいたんだな、と。で、職場を聞いたら、なんと僕の親父の部下だった。僕の名前を言ったら、とても驚いていた。喜久に親父を誘ったことがある。とうとう来なくて寂しい思いをしたが、それで良かったのかもしれない。その後、僕が青森に行って、何度か帰ったときに寄った記憶がある。が、2年経って彼女とも別れ、岡山の街とも疎遠になって、しばらくぶりに行ったときには、もうそこは看板はあるけど誰もいない場所になっていた。あれから25年。もうおばちゃんも生きていらっしゃらないのだろうなあ、と思う。いつもやさしく語りかけてくださったおばちゃんだった。ついに名前も知らぬまま、記憶の中の人となってしまった。今は、岡山駅に降り立つたびに、時間ができれば、喜久のあった建物まで足を運んでいる。行くのは昼間だし、誰もいないが、「喜久」を中心とした人間模様がそこには確実に存在したのである。